PRESIDENT BLOG
この清濁併せ呑むという言葉、一般的には善でも悪でも受け入れるというような意味だと思います。それで、悪を受け入れていいのかなと、ずっと疑問に思っていたのですが、なんとなく感覚的にこの言葉の意味するところが、最近、腑に落ちた気がします。それと、この清濁併せのむ人格を創るというのは、重要なことだと思います。
話は変わりますが、私の長男は、小さい時からスポーツのキャプテンなどをしていて、自然とリーダーになるようなタイプなんですね。この点は、私とまったく違って。それで、それがなぜか?を分析してみると、彼は、人の喜びを自分のことのように喜び、人の悲しみを自分のことのように悲しめる人なんです。だから、皆を引き寄せるのかなと思います。ただ、まだ、若いんでしょうね。自分が悪と思うようなことをされると許せないというようなところがあるんです。よく言えば正義感なんですが・・
私は、悪は受け入れなくていいと思っているんです。ただ、悪の人という特定の人がいるわけでなく、ある人が、善になったり、悪になったりし、その悪を、善に振り向けるということが必要だったり、悪を否定せず、距離を置くというようなことがいると思っています。
それが、清濁合わせ呑むということ、違う言い方をするなら器かなと思います。この場合の悪は今の法律に違反しているとか、そういうことだけではないです。それは問題外で・・・。善とは、不偏愛のことですから、それに反することは悪ととらえると、怒り、恐れ、悲しみにとらわれるのは、全部悪ですし、そこからくる、愚痴、恨みなども悪です。また、消極的というのも全部悪です。
それが悪だというのは言い過ぎじゃないか?と言われそうですが、考えてみたらわかると思うのですが、違法行為などの、とんでもない、すべての悪も、私が上で言ったことが起点になっているのも事実です。また、そういうことをすると、自分自身だけでなく周囲の人の心身を傷め、運命をも悪くするからです。
その逆は、つまり、世のため人のために良くなってほしいという想いと行動は、その人とその人の周囲の心身と運命を良くします。
そう考えると、悪が全くないという人はいないんじゃないでしょうか?先ほどの正義感も、悪を憎むなら、とらわれていることになるので、その正義感も悪だと思います。自分の中の真の善を多くするためにも清濁を併わせ呑むという人格を創らないといけないと思います。