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2024.09.30 その他

意馬猿心

意馬猿心とは、元々仏教の言葉です。心が、走り回る馬や騒ぎ立てる野猿のように心に起こる欲望や心の乱れを押さえることができないことです。この言葉は、心というのをよく表しているなと思います。

心を冷静に観察すると、常に、移ろいやすく、色々なことを考えています。しかも、心が世のため人のためとか、仕事で集中しているとかであればいいのですが、例えば、仕事をしていても、今日、何食べようかなとか考えている。つまり、本能が、この意馬猿心という状態にしています。でも、これは安心していただきたいのは、訓練していなければ皆、この状態になるということです。

例えば、最近、アメリカとかでも禅がブームらしいですが、禅というのは、この雑念妄念をなくし、無になる行為です。仏教というのは、悟るための教えなのですが、鎌倉時代に庶民に拡がってく為に簡易になっていきます。

浄土系は南無阿弥陀仏と題目を唱えれば救われると教えですし、日蓮宗は法華経というお経を信じなさいということです。その中で、禅宗というのは、この座禅、瞑想をして悟りに近づくという宗派です。無茶苦茶単純化したらですよ。

私、たまたま、檀家が曹洞宗という禅宗なんですが、これは自力思考の自分にあっていたと思います。(そういう檀家だから自力思考なのかもですが・・・)なぜ、この禅が悟りに近づくのか?これは私の考えですが、人間の中に、宇宙創造の神と同種のものがあるからだと思っています。なので、この無の状態になれば、自ずと神の力を得られるようになります。これを渙発といいます。渙発とは輝き現れ出ることです。

この神の力を邪魔しているのが、意馬猿心である本能心であり、この本能心をコントロールしないといけません。いつも言うように、無くそうとしてはいけませんよ。人間が生存する為に必要なものなので。

この意馬猿心である本能心をコントロールするのは意志の力です。この意志の力も神の力なんですね。なので、雑念妄念が意識の多くを占めている状態だと意志の力も渙発しない状況になります。
意志の力もすべての人に内在しているのです。
ですから、意馬猿心の人は、極端に意志が弱いです。

なので、潜在意識をよい考えに替えていけないといけません。明るく、前向きで、世のため人のためという心です。そうすれば、宇宙と同調し、意志の力がでるようになり、本能をコントロールできる。

こういう理屈だと思います。昔の教えも、時代の荒波にさらされながら残っているものは、意味があると思います。だから、古いといって、そういうことを切り捨てる人はまさしく意馬猿心になり、おバカな行動をして不幸を導いている人が多い気がします。